第二十七話 幻影の行方

呆けた様に 私は何時までも其の場に立ち尽くす

小さな流れへと辿る踏み跡は 今深く雑草に覆い
隠され 渓のご機嫌さえ覗き見る事も出来ない
キュッキュッ! タイヤの軋み音を残し 峠へと
続く路を 勢い良く若者の車が走り去る・・・・・・
あの日は 愛車の腹部を擦りながら やっとの
思いで 此処まで辿り付いたものだったのに
何処からか 都会の臭いを時代が運び来る様だ
目を凝らすと 雑草の背丈で 僅かな田跡と畑の
段差を見て取れる 其の奥に有った茅葺屋根の
住居を捜し求めてしまった。
もうどれだけ過ぎてしまったのか あの爺さんは
何処へ行ってしまったのだろう?いやあの時でも
もうかなりの齢 既に他界されたのかもしれない

・・一陣の風が 皺の目立ち始めた頬を霞めた・・
この釣りにおいては 渓の珠玉宝石とも表現される渓魚との妖しい駆け引きに その感心の多くを奪われがち
と成るのだが 私にとり山里にひっそり生きる山人との新たな出会いが何より好きであった 交通手段情報伝達が
整理されて居なかった時代の事 移ろう日々の変化に取り残されて行った人々との触れ合い 元来山家育ちの
私は 都会生活の世知辛さに息苦しさを覚え 更なる奥地へと向ったもので 懐かしくも新鮮な出会いを求めて。

・・頃は1970年前後の事・・
おい 何処行くんじゃぁ』 『えっ? つっ釣ですがぁ』 一軒家の軒をすり抜け 渓へと出るルートを下ろうとした時
背後から思わぬ声が掛かる  振り向くと何時の間にか 背筋を張り浅黒く焼けた顔の中で 鋭い視線を此方向け
一人の爺さんが私を見据えているではないか 足元から舐めるようにその格好を確認すると微かに口元が緩んだ
何せ私もまだ若く この釣に対し知識も乏しけりゃあ金も無い 着古しジーンズにバスケットシューズ 手には安物
万能竿と云った姿 そんな私に向け言い放った 『素人にゃぁ無理だ 止めとけ』 其れは突き放すような言葉だった
今日はこの流域の漁協組合長が知人の兄と云う事で 勧められるがまま 狭く九十九折れの気の遠く成るような
道中を何時間も掛け迷いながら 何とか此処まで辿り付いたものだった 此処で引き返す訳には行かないのだ
向っ気の強い若者の事 不快感をモロに表しただろう 『名古屋くんだりからこんな処まで来て 止めとけはないだろ
其の時爺さん 僅かに表情が動いた 『ふん 若ぇ者のくせ生言いやがる ならまぁやってみぃアマゴは居るでのぅ
帰りにゃ寄ってけぇ 茶ぁ位出したるでぇ』 くるりと後ろを向いて 振り返る事無く屋敷中へと消えて行った・・・・・・・
小首を傾げながら 階段状に刻まれた渓への小道を下り いよいよ念願の渓魚との対面と成った 予想してたより
流れは細く 一抱えも有るだろう石積が上へ上へと続いて行く。
今と成り思い出せば顔が赤らむ様な 素人丸出し
道具立に 餌さは今回の予行練習 虹鱒の放流
釣場で残した 表皮が若干硬くなり臭うイクラだ
何投目かの 振込みらしき動作に ”クン クン”
何やら竿先に異変が? 半信半疑で竿を煽ると
向こう合せで釣れてしまう! 慌て急ぐ余りに
周囲を測る事さえなく 後方へ飛んでしまった
バサッ!” 竿を捨て飛び込んだ辺り向け
脱兎の如く駆け寄ると  居た! この瞬間が
今日此処まで この世界に私を留め置く核と成る
此れが あのアマゴなのかぁ?』何か触れては
成らぬ領域へと 踏み込んでしまった迷い人と
化し 壊れ物でも持つよう そっと魚体に触れた
アマゴは 一心不乱に竿を振りつづける無作法な
若者にも愛想を尽くしたのか 次々と顔を出す
もう有頂天と成り釣続けた 辿路が谷を横切る
辺りで 幾つかのアマゴを 濡らした布で包み
車道へと上る。
轍跡の深い 狭い山道を下る左眼下には 先刻の爺さんの家が見えた あっ!こっちを見てやがる ええいほっとけ
車のトランクに釣具を納め 濡れ重くなったバスケットシューズを脱ぎすてようと傍らの土手に腰を下した 紐を解き
掛けんと屈んだ頭上にふと気配が? 視線を上げると思いがけずあの爺さん其処に立って居るではないか???
あの時見せた表情とは うって変わり まるで自分の孫にでも語り掛ける様穏かに口を開いた 『どうじゃぁ?
若干戸惑いながらも答えた 『うん 少しは釣れた』 『どれどれ 見せてみぃ』 クーラーboxの魚を手にしては
この渓の アマゴは気難しいでぇ』 等と一人ブツブツ言って居たが 私の傍らに腰を下ろし ポケットを弄ると
取り出されたゴールデンバット 潰れた箱の中から大事そうに1本取り出しマッチを擦った 紫煙と硫黄臭が何とも
懐古的な気分にしてくれる 美味そうに一息吐くと話は続き 『昔はもっともっとよぉけい居ったもんだ 谷に入りゃ
それこそどうやって魚を踏まずに歩こうか 気ぃ付けなぁならんくらいに ふぇっふぇっ』 『魚は減ったんだぁ 何で
近頃じゃぁ こんな山奥にさえ 町方の釣り人が入って来ては 根こそぎ持ち帰りよる 渓の生産が其れに追いつ
かんのよぉ』 爺さんが先刻見せた あからさまな敵意は 都会者の私に対する嫌悪感だったのか そんな山人の
思いが痛いほど身にしみては つい居心地の悪さを覚え腰を上げ埃を払う 『また来い きっと今日よりええ釣りが
出来るでぇ』 『うんあり難う きっときっと又来るよ』    ・・・・・ザワッ!・・・・・ 一瞬の強い風が 山郷の屋敷と
其の先に覗く渓を 一層生々しく映しだす 『いい渓だねぇ』 『ああええ処じゃろう オラの渓だぁ』・・・・・・・・・

   
                                                         oozeki